最近、地方議員が社保加入サービスを利用していたことが報道され、社会的な批判を受けています。社会保険労務士として、実態のない雇用関係を装って社会保険に加入する行為は、制度の趣旨に反する脱法行為であり、容認できるものではありません。
しかし、この問題をきっかけに「マイクロ法人で低い役員報酬を設定すること自体が問題だ」という論調が広がり、標準報酬月額の1等級(58,000円)を引き上げるような制度改正が行われることを、私は強く懸念しています。
実態のある事業を営む起業家にとって、現行の標準報酬1等級は最低限必要な制度です。本記事では、脱法行為と適法な経営判断の違いを明確にし、起業家を守るべき理由を解説します。
社保加入サービスの何が問題なのか
報道されている社保加入サービスの問題点は、実態のない雇用関係を作り出して社会保険に加入しているという点にあります。
社会保険制度は、労働者や経営者が実際に働いて収入を得ている実態があることを前提としています。ところが、問題となっているサービスではどうでしょうか?
- 実際には何も業務をしていない
- 給与の支払い実態が乏しい、または形式的
- 社会保険加入のためだけに雇用関係を装っている
もしこのような事実があれば、制度の趣旨を逸脱した脱法行為だと考えます。社労士として、このようなサービスの利用を推奨することは決してできません。
真面目に保険料を負担している事業主や加入者に対しても不公平であり、社会保険制度そのものへの信頼を損なう行為です。
マイクロ法人の標準報酬1等級は適法な経営判断
一方で、実際に法人を設立し、事業を営んでいる起業家が、役員報酬を標準報酬1等級(58,000円)に設定することは、全く異なる話です。
スタートアップ経営者の実態
起業初期のスタートアップ経営者の多くは:
- 売上が安定するまで時間がかかる
- 初期投資や運転資金の確保が最優先
- 自分の報酬を最小限に抑えて事業を継続する
これは世界中のスタートアップで見られる当たり前の経営判断です。
実際、私自身もマイクロ法人を運営する中で、個人事業の収入で生活費を賄いながら、法人の役員報酬は最小限に設定しています。これは実態のある事業運営における適法な経営判断です。
標準報酬58,000円は最低限の水準
現行の標準報酬月額1等級(58,000円)でも、社会保険料(健保・厚年)の事業主負担と本人負担を合わせると、約23,000円程度(令和7年度・大阪府)の負担が発生します。
売上が月数万円しかない起業初期の段階で、これ以上の人件費負担は事業継続を困難にします。58,000円という水準は、厳しい経営環境の中で起業家が事業を続けながら社会保険に加入できるギリギリの水準ではないでしょうか。
個人事業主との二刀流という働き方
多くのマイクロ法人経営者は、個人事業主としての本業を持ちながら、法人でも事業を展開する「二刀流」のスタイルを取っています。
この働き方により、柔軟な事業展開と適切なリスク分散が可能になります。法人の役員報酬を低く設定するのは、個人事業で生計維持レベルの収入を得ているという実態があるからです。
「マイクロ法人は不公平」という批判への反論
批判1:「低負担で健康保険・厚生年金に入れて不公平だ」
反論:
確かに、個人事業で所得を得ながら、法人の低い役員報酬で社会保険に加入できる二刀流は、個人事業のみを営んでいる個人事業主と比べて有利な面もあると思われるでしょう。
しかし、これは制度が認めている正当な働き方であり、以下の理由から維持すべきです。
マイクロ法人経営者が負担しているものとは、
- 法人設立費用:約6万円〜25万円(株式会社の場合)
- 法人住民税均等割:年間7万円(赤字でも必須)
- 社会保険料:事業主負担分として年間約14万円(赤字でも必須)
- 税理士費用:年間10万円〜30万円
- 会計ソフト費用:年間数万円
- 決算・申告の手間:個人事業の何倍もの事務負担
- 社会的責任:倒産リスク、取引先への責任
年間で少なくとも20万円以上の追加コストを負担しながら、社会保険料の事業主負担分も支払っています。
批判2:「社会保険料を安くするための制度悪用だ」
反論:
これは「役員報酬の設定=制度悪用」という誤解です。
法人の役員報酬は、
- 会社法で認められた経営判断の範囲
- 事業の収益状況に応じて決定するもの
- 株主総会で決議する正式な手続き
スタートアップ企業の創業者が低い報酬で事業を育てることは、世界中で行われている正当な経営判断です。
Amazon創業者のジェフ・ベゾスも、長年にわたり年俸81,840ドル(約900万円)という控えめな報酬でした。これを「制度悪用」と呼ぶ人はいません。
批判3:「個人事業だけで十分なのに、わざわざ法人を作るのはずるい」
反論:
法人設立には正当な事業上の理由があります。
取引上の必要性
- 法人としか取引しない企業が存在する
- 大手企業との取引には法人格が必要なケースが多い
- 信用力の向上
事業拡大への準備
- 将来の従業員雇用を見据えて
- 資金調達の選択肢拡大
- 事業承継の準備
リスク分散
- 個人事業と法人事業でリスクを分散
- 取引先の倒産リスクへの対応
これらは「ずるい」のではなく、事業を継続・発展させるための合理的な判断です。
批判4:「二刀流は社会保険制度の想定外だ」
反論:
法律は個人事業と法人経営の兼業を禁止していません。
- 会社法:役員の兼業を制限していない
- 税法:個人事業と法人事業の両立を認めている
- 社会保険法:法人の役員として加入要件を満たせば加入できる
制度が想定していないのではなく、制度が認めている働き方です。
むしろ、働き方の多様化が進む現代において:
- 複数の収入源を持つ働き方
- リスク分散しながらの起業
- スモールスタートでの事業展開
これらを可能にする柔軟な制度として機能しています。

サラリーマンの副業(事業所得)も順番は逆ですが、結局は同じ理屈ですよね。柔軟な働き方や、副業の推進に冷や水を浴びせるようなことがあってはならないと思います。
批判5:「真面目に高い保険料を払っている人が損をする」
反論:
社会保険は「払った額に応じた給付を受ける制度」です。
標準報酬1等級(58,000円)で加入した場合、
- 支払う保険料は少ない
- 受け取る年金額も少ない
- 傷病手当金の額も少ない
高い報酬で高い保険料を払っている人は、
- より高い年金を受け取る
- より手厚い保障を受ける
これは不公平ではなく、払った額に応じた給付を受ける、制度設計の通りです。
むしろ、マイクロ法人経営者は、
- 個人事業の国民健康保険料も別途負担
- 法人の社会保険料(事業主負担分)も負担
- 実質的に二重の負担をしている側面もある
「公平」とは何かを考える
税・社会保険制度における「公平」には複数の視点があります。
水平的公平:同じ状況の人は同じ負担 → 同じ役員報酬なら同じ社会保険料
垂直的公平:能力のある人はより多く負担 → 高所得者は高い所得税・住民税を払っている
法人と個人事業の二刀流経営者は、
- 社会保険料は低いが、所得税・住民税は高い
- 個人事業の所得には累進課税が適用される
- トータルの税・社会保険負担で見れば相応の負担をしている
制度改悪の懸念とその影響
もし標準報酬の1等級が引き上げられた場合、どうなるでしょうか。
シミュレーション:1等級から4等級をまとめられたら
すでに厚生年金保険では、標準報酬等級の1等級から4等級までをまとめて1等級としていますが、健康保険も同様に1等級にまとめられたとします。
執筆時点・大阪府の健康保険・厚生年金保険の保険料額表よりシミュレーションしました。保険料は、事業主負担と本人負担の合計額です。
| 現行通り | 改悪シミュレーション | |
|---|---|---|
| 健康保険 | (1等級)6,842円/月 | (4等級)10,411円/月 |
| 厚生年金保険 | (1等級)16,104円/月 | (1等級)16,104円/月 |
健康保険が3,569円/月増額してしまいます。これは年額にすると42,828円の増額です。
売上が月10万円以下のスタートアップにとって、この負担は事業継続の足枷になりかねません。
資金力のある人しか起業できなくなる
標準報酬の引き上げは、実質的に「最初から十分な資金がある人しか起業できない」という状況を作り出します。
- 若い起業家が挑戦する機会を奪う
- 副業から事業を育てる道を閉ざす
- スモールビジネスの芽を摘む
これは日本の起業環境にとって大きなマイナスです。
個人事業主との二刀流の選択肢が失われる
標準報酬の引き上げは、柔軟な働き方の選択肢を奪います。
現状では、
- リスクを抑えながら法人化に挑戦できる
- 事業の成長に応じて報酬を調整できる
- 複数の収入源を持つ働き方が可能
これらのメリットが失われれば、多様な働き方を阻害することになります。
社労士としての提言
社会保険制度の健全性を守るためには、脱法行為への対処と、適法な経営者の保護を両立させる必要があります。
脱法行為の取り締まり強化は必要
実態のない雇用関係による社保加入は、厳格に取り締まるべきです。
- 加入時の実態審査の強化
- 給与支払い実態の確認
- 違反者への罰則強化
しかし適法な経営者を巻き込むべきではない
一方で、実態のある事業を営む起業家まで制度変更の影響を受けるべきではありません。
- 標準報酬1等級は現行水準の維持を
- 実態審査で適法と脱法を区別する
- 起業を支援する制度設計を
実態に基づく適切な制度運用を
重要なのは「金額の高低」ではなく「実態があるかどうか」です。
実際に法人を運営し、業務を行い、適切に申告している経営者の経営判断を尊重すべきです。同時に、形式的な加入を排除する仕組みを整備することで、制度の健全性を保つことができます。
実際に法人を経営し、事業を行っている経営者までを否定すべきではありません。
まとめ
社保加入サービスの脱法的利用は容認できませんが、だからといって適法なマイクロ法人経営まで否定されるべきではありません。
標準報酬月額1等級(58,000円)は、起業家が事業を継続しながら社会保険に加入できる最低限の水準です。この制度が維持されることで、資金力に関わらず多くの人が起業に挑戦できる環境が守られます。
脱法行為の取り締まりと、適法な起業家の保護。この両立こそが、健全な社会保険制度と活力ある起業環境を実現する道だと、社労士として考えています。


